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奈良地方裁判所 昭和54年(行ウ)3号 判決

原告 坂本興美

被告 奈良県立医科大学学長

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求趣旨

1  被告が昭和五四年三月五日付をもつてなした原告に対する奈良県立医科大学臨床研修医許可の取消処分を取消す。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

二  請求趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1(一)  原告は、昭和五二年七月医師免許を取得し、同年五月一日以降奈良県立医科大学(以下「医大」という。)臨床研修医(以下「研修医」という。)の地位にあつた。

ところで、研修医は、医大附属病院において、医療行為に従事し、右行為に対して「診療協力謝金」(以下「協力金」という。)を受けているものであつて、研修医の地位は、地方公務員法三条にいう特別職たる地方公務員と言うべきである。

(二)  被告は、原告の任命権者である。

2  被告は、昭和五四年三月二六日、原告に対し同月五日付書面をもつて、左記の理由により医大研修医許可の取消処分(以下「本件処分」という。)をした。

(理由)

「あなたは、昭和五二年八月九日開催の第一回代表者会議の席上で暴力行為に及び奈良地方裁判所より暴行罪により罰金刑を科せられたほか、大学内でしばしば暴力的行為に及ぶなど大学内の秩序維持に違背する行為が多いので、臨床研修医の許可を取消すものである。」

3  しかしながら、本件処分は、処分の合理的理由なく、また、その処分権限を濫用した違法な処分で、取消されるべきものである。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実のうち(二)の事実は否認し、その余の事実は認める。なお、被告は、研修医の許可権者であり、また、研修医が地方公務員法三条にいう特別職たる地方公務員という主張は争う。

2  同2の事実は認める。

3  同3の主張は争う。

三  抗弁

1  本案前の抗弁

原告の本件訴えには左記のとおり訴えの利益がない。

(一) 被告は、医大臨床研修規程六条に基づき、原告に対し、昭和五二年五月一日から同五四年四月三〇日までの二年間に限り医大研修医となることを許可した。研修医には協力金が支払われるが、それは、いわゆる謝礼(純粋な意味で)(医大臨床研修取扱細則四条参照)であつて、現実に職務に従事すると否とを問わず、当然かつ、確定的に支給される一般職の地方公務員に支給される給与ないし給料とは異る。

(二) また、臨床研修を行なうか否かは、当該医師個人の選択にまかされており、これを行なわなかつたからと言つて、法律上、格別の不利益を受けるものでもない。

(三) そうすると、原告の二年間の研修期間はすでに経過し、そして、その受給していた協力金も一般職の地方公務員の給与とは相違しているうえ、臨床研修をしたか否かによつて法律上格別の相違がない本件においては、最早、原告につき本件処分を取消すことによつて回復すべき利益はないと言わざるをえない。

2  本案についての抗弁

(一) 臨床研修制度は、医師法一六条の二により、医師免許取得後も、臨床研修医として勤務し、臨床修練を通して診療に関する知識、技能を実地に磨き、更に、医療における人間関係、とくに、医師と患者との関係について理解を深め、合わせて医の倫理を体得し、医師としての資質の向上をはかることを目的とする制度であつて、医大では、右法案を受けた医大臨床研修規程(昭和四六年四月一三日制定)及び医大臨床研修取扱細則(同日制定)に基づき、それを実施している。

(二)(1) ところで、原告は、右研修医の目的と相反するような左記の行為を行なつた(処分理由)。

(2) 原告は

(a) 昭和五二年七月二五日開催された助講会常任委員会において、神経精神科(昭和五三年四月以降精神神経科と改称されているが、改称後も含めて以下「精神科」という。)学教室員数名とともに無断で会議場内に入り込み、第二生理学教室助教授富田晋に対し、同人発言中机上を激しく叩き、椅子を足蹴りにして精神的圧迫を加え続け、遂に「お前は助講会員の資格があるのか」と怒鳴りながら、同人の両腕を掴み、出口の方へ引つぱつて行き、同人を右会議場内より外に強制的に退出させる等の暴力的行為をなし、右委員会の業務を妨害した。

(b) 昭和五二年八月八日開催された助手会世話人会議終了直後、同会議のあつた眼科学教室の教授室から出ようとした病態検査学科助手山尾洋成に対し、当時精神科非常勤医員であつた森口秀樹(以下「森口」という。)とともに、山尾の退去を妨害したうえ、押したり、引きずるなどの暴行を加え、よつて、同人に対し、右肘関節捻挫ならびに左上腕内側部、肘関節部内側部、前腕内側部擦過傷及び皮下出血の傷害を負わせた。

(c) 昭和五二年八月九日開催された第一回代表者会議にオブザーバーとして出席し、第一外科助手稲次直樹(以下「稲次」という。)の発言に対し、同発言が議事妨害であると立腹し、同人の顔面を右手拳で一回殴打したうえ、足蹴りにする暴行を加えた。

なお、奈良簡易裁判所は、原告の右暴行行為を罪となるべき事実として、原告に対し、罰金二万円の略式命令をなしている。

(d) 昭和五二年八月一六日、他の精神科教室員とともに、無断で第一外科医局に立ち入り、同所で執務中の医局員に対し、フラツシユをたいて写真をとり、氏名をメモし医局内の備品の位置などをメモして同室内に留り、右医局員の執務を妨害した。

(e) 昭和五二年八月一六日、第一内科医局において開催されていた臨時第一内科医局会の会議中、右会場のドアの前に、他の精神科教室員とともに集まり、ドアを叩き、口々に「医局の中へ入れろ。ここは大学の建物だ。許可をもらつて来ている。」「一内も一外と同様につぶしてやる。」などと怒鳴り、更に医局の最上段のガラス窓ごしに顔を出し、大声で怒鳴り、医局内をカメラで撮影し、「入室させよ」と怒鳴り続けた。そこで、第一内科医局は、やむをえず、五分間という約束で原告らを入室させたところ、同人らは、医局内の掲載物を取りはずして撮影し、一内医局員名簿を撮影する等して、約束の五分経過後も退出せず、約二〇分間医局会を完全に中断させた。

その後、当時の医大学長堀浩の来室により一旦退出したが、原告らは、無断で、再び右医局内に入り込み、医局会の最中だから出るようにとの要請を無視して、カメラで医局員一人一人の顔を接写したり、掲示物をはぎとりコピーしたり約一時間にわたり医局会を妨害した。そのため、医局会は、やむなくこれを中断せざるを得なかつた。

(f) 昭和五二年八月一八日、第一内科部長石川兵衛が附属病院第一内科外来診察室で外来患者の診察をしていた際、森口らとともに、同室に無断で入り込み、同部長の退出要請にも拘らず、同部長をとり囲み、同人の顔に接するぐらいに学長の声明文を突きつけ「どう思うか」等とつめより、同人をにらみつけて、同人に恐怖心を与えるとともに、その診察業務を妨害した。

(g) 昭和五二年八月一八日、附属病院第一外科医局に、森口らとともに無断で入り込み、同所で論文を書いていたがんセンター高橋精一助手に対し、堀学長の声明文をどう思うか等とつめより、森口が高橋の書いていた論文を取り上げる等の所為に及んでいるのを黙認したうえ、更に、高橋を森口らとともに威力を示して手洗場の上まで押しやつた。

(h) 昭和五二年八月二〇日、橿原市立中央公民館会議室において開催されていた第一外科、第一内科の合同医局会の会議中、当時、精神科の助手であつた中島、田野島ら他数名とともに会議場に乱入し、無断で写真をとり、とくに田野島助手は、机の上を土足で走り回り、また、原告も大声で叫び回るなどして、右医局会議の妨害をした。

(i) 昭和五三年一月一〇日開催された第八回教授会に、森口、その他の学生とともにオブザーバーとして出席していたが、同教授会において、教授会の傍聴禁止に関する賛否の投票をしようとした際、森口は、学生オブザーバーとともに議長につめより、同人の所持するワイヤレスマイクを取り上げる等して議長の議事進行を妨害し、更に、右投票のために設置されていた投票箱を強奪する等の行為に及んだ。原告は、その際、森口らの右行為に合わせて、投票用紙の配布を開始した事務職員から同用紙を強奪し、破りすてるなどして、右会議の業務を妨害した。

(j) 昭和五三年九月二九日開催された昭和五四年度第一回予算委員会において、同委員会が非公開であるにもかかわらず、森口とともに無断で会議室に立ち入り、予算委員の制止や退場要求にも応ずることなく、大声で自説を述べた。その際、森口が予算委員の山本稔教授と議論をし、右両者の意見の相違が明らかになつたところ、森口は、右山本教授に対し「そのような考えをもつ者を予算委員として認めるわけにはいかない。出て行け。」等と怒鳴り、同人の後から右脇に手を入れ席より立たせようとした。右森口の行為に合わせて原告も山本教授の左側から「出て行け」と怒鳴りながら、同人の左脇に手を入れ、森口とともに両側から山本教授をかかえ、同人を無理矢理に席から引きずり出し、その頃そこに入室してきた他の精神科教室員の居る出口まで引きずつて行き、そこで始めて同人を離し再び他の予算委員のところへ引き返えしたりした。右のような原告らの行為によつて、予算委員会の業務は妨害され、同日の予算委員会は流会となつた。

(k) 昭和五三年一〇月三日開催された第九回臨時教授会終了直後、その会議のあつた大講堂前で待つている車に乗るため、同大講堂玄関前まで出てきた梅垣学長の前に、森口その他の精神科教室員とともに立ちふさがり、同学長が右車に乗るのを妨害し、そして、事務職員の助けでやつと学長が車に乗り込み発進しようとするや、原告らが同車の前に立ちふさがり、森口らが同車を激しく叩き、その他の精神科教室員が同車をゆさぶるなどの行為を続け、同車の発車を約一時間二〇分も妨害した。ところで、右妨害の終結は、右事態によりやむをえず出動を要請した機動隊による右妨害者の排除の結果に基づくものである。

(l) 昭和五三年一〇月七日附属病院五病棟(精神科)四階図書室において、当日精神科ポリクリを受講する予定になつていた医大六年生の矢島他三名に対し、同人らが定刻に遅れたこと、白衣の前ボタンがはずれていたことにつき注意を与え、更に同年一〇月六日の六年生のクラス決議について問いただす等した後、とくに矢島に対して、態度が悪いとして退席を命じた。しかし、矢島が「すみません」と謝つたのみで出ていこうとしなかつたところ、原告は、同人の背後からその両脇をかかえあげ、無理矢理強引に同人の手をひき室外に出した。このため同人に右前腕、右手背部に擦過傷及び挫傷を負わしめた。

(m) 昭和五四年二月二四日、附属病院五病棟二階において、精神科井川助教授らが病棟に入ろうとした際、入口より出てきて、同人らをにらみすえながら、「何しにきたんや、何の資格でここに来たんや、医局員でないのが何で病棟にくるんや。」などの発言をなし、約二〇分間にわたり同人らの入室を妨害した。

(3) 原告の以上の行為は、自己の考えに副わない大学運営に対して暴力を用いて、正規の医大の管理機関としての教授会の会議を妨害し、また、管理機関の構成員ないし管理者である医大学長を脅し、更に、右管理機関の決定を無視して、医大内の秩序を著しく乱したものである。

(三) 前記規程七条によれば「学長は、研修医が医師免許の取消し、又は医業の停止の処分を受けたとき、その他臨床研修を継続させることが適当でないと認められたときは、前条の臨床研修の許可を取消すことができる」旨規定しているところ、原告の前記行為は、研修医が保有すべき医学に対する真摯な態度と医大研修医として望まれる行動を逸脱した行為であるから、同人をして研修医を継続させることが適当でない場合に該当する。

(四) そこで、被告は、医大の正常な運営と秩序を維持するため、やむなく本件処分に及んだ。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の冒頭部分の主張は争う。

(一) 同(一)のうち、原告が被告主張の頃、医大研修医の許可を受けたこと及び協力金の支払を受けることになつている事実は認めるが、その余の主張は争う。

(二) 同(二)の主張は認める。

(三) 同(三)の主張は争う。

なお、原告の本件訴えには、左記のとおり訴えの利益がある。

(1)(a) 医師法一六条の二によれば、医師としての技量の向上という点において臨床研修を行なうことが望ましいとされているところ、一旦、医師がそれを行なうことを選択し、そして、臨床研修機関が同医師の受けいれにつき許可を与えた場合には、同医師につき、臨床研修を行う権利ないし利益が生ずるため、同機関としては、同医師の右権利、利益を不当に奪つてはならないという義務が発生する。別の観点から言えば臨床研修にあたつて、管理者は、研修医に対し、どのような疾病をもつた患者について診療を行なわせるかという範囲で裁量権を有するけれども、研修医の診療協力そのものを拒否することが、同人の研修を拒否することになるうえ、研修医としては実地に診療に関与してこそ、研修医になつた目的が達せられるものであるから、研修医に診療協力として実地の診療を行なわせるか否かにつき自由裁量が認められるとは言えず、却つて、研修医に診療協力をさせなければならない義務がある。

(b) ところで、前記臨床研修規程には、「研修医の臨床研修期間は、医師免許取得後二年とする」(三条)旨規定しているが、それは、右臨床研修の性質ないし「臨床研修の期間は継続して二年間行なうことを原則とする」旨規定した昭和四三年七月一六日付厚生省医務局長通知の趣旨からみて、いわゆる期限としてではなく、現実に臨床研修をなしうる期間を意味するものである。

(c) そうすると、本件において、本件処分が取消されれば、原告は、同人に残された臨床研修期間(約一か月と二〇日余り)、医大で臨床研修をなしうるところ、それは、原告にとつて法律上保護に値する利益と言うべきであるから、この点だけでも、原告の訴えには、訴えの利益があると言わなければならない。

(2)(a) また、前記臨床研修規程には「研修医が附属病院の診療に協力したときには、別に定めるところにより診療協力謝金を支給する」(九条)旨規定している。

(b) 右規定による協力金は、いわゆる純粋の礼金ではなく、前記臨床研修取扱細則三条四条に規定されているとおり、給付の月額は原則として定額とされ(但し、臨床研修に従事した日数が二〇日に満たない場合の「右謝金」の算定方法を明定されている)、また、それは、前記診療行為の対価とも言うべきものであるから、右謝金の名目が如何なるものであるにせよ、一般職地方公務員の給与と何ら異なるところはない。

(c) そうすると、右謝金の点からも、原告の本件訴えには、法律上回復すべき法的利益ありと言うべきであるから、訴えの利益があると言わなければならない。

(3) 更に、人の履歴の正常性ないし正当性もまた有用な一個の社会的価値として評価されるべきものであるから、本件処分の取消により、回復されるべき利益もまた法律上保護に値する利益と言うべきである。

そうすると、この点からも原告の本件訴えには、訴えの利益があると言わざるをえない。

2(一)  同2(一)の事実は認める。

(二)(1)  同2(二)(1)の事実は否認する。

(2)(a) 同(二)(2)(a)の事実のうち、昭和五二年七月二五日助講会常任委員会が開催されたことは認め、その余の事実は否認する。なお、原告及び精神科教室員は、右委員会を傍聴するに当り、精神科の田中助手が傍聴させて欲しい旨発言をしたうえ傍聴したものであり、それに対して制止する行為は一切なかつた。

また、委員会の席上、富田助教授が無責任な発言をしたため、原告及び精神科教室員が富田助教授に対し意見を言つたこと、そして、それに対して富田助教授が返答することなく、怒つた表情で自ら退室したに過ぎない。

(b) 同(2)(b)の事実は否認する。なお、原告と山尾が昭和五二年八月八日開催されていた助手会世話人会議をともに傍聴していたが、その際両者の間で議論になり、山尾から「右会議終了後話し合おう」と言われたことから一応これを中断し、右会議終了後原告が山尾と議論しようとしたところ、山尾が原告を突きとばして出て行つたのであり、この間、原告は、山尾の体に一切触れていない。

(c) 同(2)(c)の事実のうち、昭和五二年八月九日第一回代表者会議が開催されたこと、原告が右会議のオブザーバーとして出席していたこと、そして、そこでの稲次の発言につき議事妨害であると立腹したこと、原告が稲次を殴つたこと、及び原告が略式命令を受けたことは認め、その余の事実は否認する。なお、同会議の席上原告が稲次を殴つたのは、同人が前日の件につき原告の方が山尾に暴力を振つたという全く事実に反する発言をしたことに興奮したためである。

(d) 同(2)(d)の事実のうち、昭和五二年八月一六日原告が他の精神科教室員とともに第一外科医局に立ち入つたこと、そして、そこで、原告とともに入室した精神科教室員が写真を撮影したことは認め、その余の事実は否認する。

なお、原告らが右のような行動に出たのは、昭和五二年八月一五日付で第一外科、第一内科各教室、中央臨床検査部連名で出された声明文の内容が、真実は、山尾、稲次が議事妨害をしたのに、それにつき一切記載せず、原告ら精神科教室員の行動のみを民主的な会議運営のルールを無視した暴力行為として一方的に非難したものであつたことにつき話し合い、また、大学の改革につき双方の理解をはかるためであつた。また、右入室時間は、病院の執務時間の終了した午後六時ごろで、当時、医局には一〇名位いたが、これらの者は、執務中ではなく、休憩をしていた。

(e) 同(2)(e)の事実のうち、昭和五二年八月一六日、原告が他の精神科教室員とともに第一内科医局に赴き、同医局に入つたこと、一旦、退出後、原告と精神科教室員の中嶋助手とが再度、同医局に入室したことは認め、その際、第一内科医局会議中であつたとの点は不知、その余の事実は否認する。

なお、入室時間であるが、二回とも各五分間位である。右医局へ赴いた理由は、前記抗弁2(二)(2)(d)なお書き部分と同様である。

(f) 同(2)(f)の事実のうち、昭和五二年八月一八日、原告が、森口らとともに、附属病院第一内科外来診察室に入室し、同所で原告らが第一内科部長石川兵衛と面談したことは認め、その余の事実は否認する。

なお、原告らの右診察室に入室したのは、患者に対する治療行為が一時とだえた時であるうえ、その入室に当つては許可を得ているし、その入室時間も約五分位である。また、右入室の理由は、右第一外科医局へ入室したときと同じものである。

(g) 同(2)(g)の事実のうち、昭和五二年八月一八日、原告が森口ら精神科教室員とともに附属病院第一外科医局に入室したことは認め、その余の事実は否認する。

なお、原告らは、右入室した際、そこにいた高橋助手と前記の連名で出された声明文について話し合おうとしたが、同人は話し合う姿勢を示さず、却つて、おどけた仕種で、手洗場に飛び乗るなどの行為を行なつたのである。

(h) 同(2)(h)の事実のうち、昭和五二年八月二〇日、第一外科、第一内科の各教室が橿原市立中央公民館会議室で合同医局会を開催していたこと、そして、そこに原告を含む精神科教室員が入室したことは認め、その余の事実は否認する。

なお、右の会議は「橿原釣りの会」の名称で行なわれていた。そして、原告らが同所へ赴いたのは、前記昭和五二年八月九日の山尾とのこぜり合いにつき、冷静に判断して欲しい旨訴えるためであつた。

(i) 同(2)(i)の事実のうち、昭和五三年一月一〇日第八回教授会が開催されたこと、同教授会において、教授会の傍聴禁止に関する賛否の投票を行なおうとしたこと、原告、森口、その他学生オブザーバーが傍聴していたこと、そして、原告がそこで、事務職員から投票用紙をとりあげてこれを破棄したことは認め、その余の事実は否認する。

なお、原告が、右のとおり投票用紙をとり上げ、破棄したのは、被告が違法な議事の進行をしたためである。すなわち、教授会において審議の対象とするためには、事前に公告しなければならず(乙第二三号証)、また、学長の教授会での傍聴禁止に関する事項の提案については、まず、動議として教授会で取り上げるかどうか審議し、そのうえ取り上げるとしてもそれについて討論がなされなければならないにも拘らず、右いずれの手続も経ず、いきなりその賛否を問う投票に移つたことに起因するものである。右学長の提案及び議事進行について、同人は、それまでの教授会が紛糾したことをその理由としているが、その紛糾した原因はいずれも、同人の議事進行の進め方にあり、すなわち、「人事の秘密に関する事項は非公開」とされていた(教授会規程)のに、一方的に右条項を「人事は全て非公開で行なう」ことを定めたものだと拡大解釈したり(甲第四〇号証)、また、予め公開の場で審議を行う旨公示しながら当日になつて一方的にこれを破棄し(甲第一号証の一、二、同第四一号証)、そして、非公開の教授会で人事案件をすべて非公開とする旨の決議(甲第四二号証)をしたりしたことによるものである。

(j) 同(2)(j)の事実は否認する。

なお、昭和五三年九月二九日予算委員会が開かれる予定であつたこと、そして、その予定会場に、原告及び森口ら精神科教室員が同会場に赴いたところ、同委員会から非公開であることを理由に退去を求められたが森口において、委員会は、慣行として傍聴がこれまで認められてきたと発言した後は、退去を求められなくなつた。森口が、同所で、山本教授と議論をしたが、激しく対立したというものではなく、山本教授も自発的に席を立ち出ていつたものである。そして、予算委員会が流会になつたのは、同委員会招集権者たる学長が同会に出席していなかつたためである。

(k) 同(2)(k)の事実のうち、昭和五三年一〇月三日、大講堂で第九回臨時教授会が開催されたこと、そして、その直後、同会議のあつた大講堂前で梅垣学長が、待つていた車に乗ろうとした際、その車の回りを原告らがとりかこみ、前面に立つたことがあることは認めるが、その余の事実は否認する。

なお、原告らが右のような行為をしたのは、昭和五三年九月二六日開催された第八回教授会で有岡精神科教授が空席であつた精神科教室助手ポストを埋めるための助手採用を申請したにも拘らず、それが従来の慣例に反して同会議で否決された件につき、学長と話し合いをするためで、それ以外の理由はない。そしてこの事件があるまで、原告らにおいて学長と話し合うための努力をしたが、同一〇月三日まで同人は医大に出校してこなかつた。

(l) 同(2)(l)の事実のうち、昭和五三年一〇月七日附属病院五病棟(精神科)四階図書室において、原告は当日原告が担当教官として行う精神科ポリクリ受講予定の矢島他三名が集合時間に遅れ、そして、矢島については白衣のボタンがはずれるなどしていたことから、矢島らに注意を与え、そして、矢島に対し態度が悪いとして退席を命じ同人を後ろからかかえ退室させようとしたことは認めその余の事実は否認する。

なお、矢島を退席させたのは、原告が右のような注意を与えたにも拘らず、反省の態度が認められず、そのまま実習を行なえば患者にも悪い影響を与えると判断したためである。

(m) 同(2)(m)の事実のうち、昭和五四年二月二四日附属病院第五病棟二階において、井川助教授が病棟に入ろうとしていたこと、その際、原告が井川助教授と話しをしたことは認め、その余の事実は否認する。

(3) 同(3)の事実は否認する。

(三)  同(三)のうち、前記規定七条に被告主張のとおりの文言が記載されていることは認めるが、その余の主張は争う。

(四)  同(四)の主張は争う。

五  原告の反論

1  本件処分は、後記の事情の下でなされたものである。

(一) 本件処分の背景

(1) 医大成立経過

(a) 医大は、昭和二〇年三月に設置された奈良県立医学専門学校をその前身とするもので、同二三年二月、いわゆる旧制医科大学として発足し、更に、同二七年四月新制医大となり、その後、大学院が併設され、その付属施設として同医大付属病院、同付属ガンセンター、同付属図書館、同付属看護専門学校が設置されるところとなつた。

(b) ところで、医大が新制医科大学として発足する前のみならず発足した後においても、奈良県当局の医大の整備に対する姿勢は極めて消極的であつた。そのため、とくに、昭和三三年以降における医大の設備の拡充等、例えば、基礎医学教室ガン治療棟、大学本館などの建設等は、私的な団体にすぎない医大後援会の援助に頼らざるをえなかつた。

(2) 不正入学

(a) 医大においては、昭和二七年新制医科大学として開学した当初から後記不正入学がなされ、昭和三三年ころ医大後援会(以下「後援会」という。)が医大の施設の拡充に関与するようになつてから、それがなかば制度化されるようになつた。

(b) 右にいう不正入学というのは、奈良県幹部や県会議員、あるいは、国会議員もしくは学内関係者からの紹介のあつた受験生を特別枠とし、そのうち合格点に達しなかつた者に対し寄付金を納めることを条件に入学させるというもので、それが一〇年以上もの長きに亘つて続けられ、殊に、昭和三三年から同四三年までの一一年間の入学者の三分の一以上に該当する約二七〇名の者が不正に入学し、その寄付金は二億円を超え、同五二年には、不正入学者のうちの約五〇名が数名の講師を含めて医大の教官になつているという有様であつた。

(c) ところで、右不正入学は大学ぐるみ、あるいは県ぐるみのものであつたため、これを正面からとらえて追求しようとする者はいなかつた。しかし、昭和四三年五月朝日新聞によつて、右不正入学の事実が報道されてからは、大学内でこの問題がとりあげられるようになつた。

そして、右事実を知つた医大の学生らによつて不正入学を容認していた教授会ないし学長の責任を明らかにするため、学生集会や各学年のクラス会(一学年一クラス)が開催され、抗議のため当時の二回生のクラス会では、無期限ストライキの決議をするなどの行動がなされた。

(d) しかし、医大当局は、学生らの中の不正入学者などと一体になりながら、医大当局の責任を追求しようとした学生らの動きを、右報道の後一週間余りで封じこめてしまつた。その結果、この時期には、長期に亘つて不正入学を許してきた医大の体質が根本的に問われることはなかつた。

(3) 不正入学その後から全協体制

(a) 昭和四四年四月、学生が医大の構内に掲載していたポスターを、ある教授が破つたことを契機として、学生間にうつ積していた大学当局の学生管理体制に対する不満が一挙に爆発し、同月二六日には、学生大会で全学無期限ストライキが決議されるに至つた。右事態の背景には、前年に不正入学の事実が明らかにされたにも拘らず、それを医大当局が医大の本質的な体質にかかわる重要な問題として真正面から取り上げることなく、不透明な状態で終結させたということがあつた。

(b) 右のような事態に対し、協議会(医大の助教授、講師の集まり)は、このような事態を惹き起したのは教授会に責任がある旨表明し、これを取るためには従来の大学管理の在り方を制度的に改める必要がある。即ち、従来医大の運営は教授を中心とする教授会によつてなされてきたが、医大の民主的運営を実現するためには、医大の各界各層の意見が反映されるような機構に改革しなければならない旨主張するに至つた。

(c) 右助講会の主張における大学民主化という方向性については、学生自治会もこれを支持し、以後、両者は連携をとつて医大当局に対し、右のような制度改革を求めるようになつた。

しかし、学生たちは、右のような助講会、学生自治会の動きに対し必ずしも全面的な賛意をもつて迎えたのではなかつた。というのは、助講会が、前年、不正入学問題が明らかになつた際には一切沈黙していたにも拘らず、今回、いち早く行動を起すに至つたのは、表面上は医大の民主化を打ち出してはいるが、真の意図はむしろ医大内での助講会の発言力を強め、医大運営において自らが多数派とならんがための行動ではないかとの危惧の念、また、学生自治会に対しても、同じく前年の不正入学の件が問題となつた際、全く無力であり、却つて、不透明な終結に手を貸していたのではなかつたかとの不信感があつたからである。その後学生たちの議論は、助講会、学生自治会執行部が進めている制度改革の方向を是認するかどうかをめぐつて行われた。

(d) しかし、ストライキが長期化するに従い、学生内に、このままでは留年するのではないかという不安が広がり始めるについて、右運動も序々ににぶり始め、同年七月三日の学生集会において、医大管理運営えの学生参加案が執行部案として提出、可決されるに至り、右事態は、終息することとなつた。

(4) 全協体制

(a) 昭和四四年の全学ストライキは、大学の機構改革ということで終結をみた。右にいう改革によつて大学機構は、以下のようなものとなつた。

(イ) 第一に、従前、医大の最高意思決定期関であつた教授会の上位に全学協議会が置かれたことである。昭和四四年の全学ストライキ以降の事態をみるとき、全学協議会の設置がもつとも象徴的であるので、原告らは、その後の事態を全協(右協議会の略称)体制と呼んでいる。新たに制定された医大教授会規程(昭和四四年一〇月二〇日制定)四条及び医大全学協議会規程三条によれば、教授会が付議事項につき審議するためには、必ず全学協議会の議を経なければならなくなつた。すなわち全学協議会は、医大運営についての基本的な事項を協議して合意を目指すとともに、教授会に学内各層の意見を反映せしめることを目的とする(前記協議会規程一条)ものとされ、そのため「学内の自治組織をもつて構成する。」(同規程二条一項)ものとされたのである。

(ロ) 第二に、教授会の組織上の変更がなされた。すなわち、従軍の教授会は、教授及び一部の助教授のみによつて構成されていたが、前記教授会規程二条により、「教授会は、学長、教授、助教授、常勤の講師及び助手をもつて構成される」こととなつた。更に、従前、非公開であつた教授会が「本学の非常勤講師、職員、大学院の学生、研究生、専修生、学生(以下、「職員等」という。)に公開される」(同八条一項)ことになり、「職員等は、議長の許可を得て発言できる」(同条四項)ことになつたのである。

(ハ) 第三に、教授会の下にその代行機関としての教授会代議員会が設置された。そして、教授会代議員会は、「教授及び授業科目主任である助教授の全員並びに右員数に各一を加えた助教授、常勤の講師及び助手」をもつて構成され(医大教授会代議員会規程)、「代議員会は教授会の付託を受け、教授会の審議事項につき審議し、その議決は教授会の議決とみなされる」(前記教授会規程一〇条)ものとされ、かつ右代議員会においても、教授会と同様の内容で公開することになつた。

(b) こうして全協体制が成立したものの、それを支えるべき人々の決意と熱意がなかつたため、教授団、助講会、助手会、学生自治会、看護婦自治会、看護専門学校学生自治会、看護専門学校教務自治会及び中央検査部技師自治会で構成されることになつていた全学協議会はほとんど機能しない状態となり、民主的な制度も形骸化するばかりではなくむしろその民主的な性格がマイナスに機能し、医大の運営に関しては、全く無責任なものでしかなかつた。そのため、全協体制の下において、不正入学の事実がつきつけた医大の体質に潜む問題に対し全学をあげて、それにとりくむということはなされなかつた。

(二) 本件処分に至る経緯

(1) 精神科教室の問題提起

(a) 医大が、医科大学として果すべき役割は、第一に医療スタツフの養成であり、第二に充実した医療を実施することであり、第三に、第二の役割を果すため、医学研究を充実させることである。

(b) ところが、昭和五二年当時の医大においては、全協体制下の無責任状態にあつて、右いずれについても十分な働きをしていなかつた。それは、精神科教室においても同様であつた。

(イ) 医療スタツフ養成の面では、特に臨床医を養成するための卒後研修体制が極めて不充分であつた。通常、卒後研修は、精神科病棟において、責任を持つて管理運営にあたる医師が中心となり、組織的な医療行為のなかで行なわれることが当然のこととして要請されるにも拘らず、精神科においては、右のような中心に立つ医師が存在せず、また、研修医が関与する患者に対する診断や治療方針などにつき教授等から厳密な検討や指導がなされることもなかつた。

(ロ) また、医療を行なう人的、物的設備自体にも問題があつた。すなわち、当時、精神科病棟は、すでに時代遅れとなつていた完全閉鎖病棟であり、入院患者も、その八割が長期患者で占められており、右病棟は、治療を保障するというよりは、患者を隔離するためのものであつた。また、看護婚は、他科病棟の看護体制が患者三名につき、看護婦一人の割合という特類看護であつたのに、精神科病棟では、患者四人に看護婦一人という一類看護体制になつていたうえ、他科病棟との人事交流も少く、平均年令も高く、他科から配転された看護婦に対する教育や研修の場も保証されていなかつた。

(c) しかしながら、精神科教室では、昭和五一年ころから、徐々に精神科の医療改革の声が高まり、同年一二月、長浜赤十字病院より野田正彰(後に講師以下「野田助手」ともいう。)が臨床面の指導医たる助手として赴任してきたころより、実際的な改革が始まつた。すなわち

(イ) 卒後研修体制については、野田助手が中心となり、臨床事例の検討、研究などの方法により研修の充実が図られるようになり、また、病棟医療の面でも治療的雰囲気をつくりあげるため、集団療法が始められるなど様々な改革がなされていつた。

(ロ) しかし、右のような教室内改革を進めるにあたつては、医大全体として検討しなければならない問題もあつた。例えば、病棟医療における物的設備の拡充すなわち予算の裏付けを要する病棟の改築、改装や精神科病棟で研修する看護専門学校の学生に対する同専門学校の教育内容の改善等(右学生らが精神医療に関する十分な知識を与えられていない場合、それは病棟医療の阻害要因となる。)がそれである。なお、精神科教室では、同専門学校の教育内容の改善につき、同校の校長に申入れをしたが、六か月の長きに亘つて校長が事実上不在であり、結局右申入れは、その目的を達することができなかつた。

(d) ところで、精神科に関する右のような事態は、大学運営が正常になされていれば、生ずる筈もないものである。精神科教室としては、医大全体の運営のあり方自体を改革していくのでなければ、精神科のみならず、医大の現状(無責任な運営体制)を改革することができないと認識するに至つた。

そこで、精神科教室は、医大の現状を改革するため、まず昭和五二年六月二二日、当時学長堀浩と話し合いを持ち、大学運営に関するさまざまの問題を指摘した。堀学長は、右話し合いを受けて、同年七月一二日に開催された第六回教授会代議員会において、同旨の発言をした精神科教室員に対し、運営のあり方につき再検討をすべき時期にある旨の答弁をした。

(2) 精神科教室の問題提起に対する反応

(a) 前記堀学長の答弁を受け、全学協議会の中心的構成団体である教授団、助講会、助手会は、それぞれの組織のあり方と医大運営に対するこれまでの関与の仕方につき検討を重ねていつた。

昭和五二年七月二〇日開催の教授団会議、同月二五日開催の助講会常任委員会、同年八月八日開催の助手会世話人会議は、いずれも右のような趣旨で開催されたものである。

(b) また、このような中において根底的な問いかけをしたのは学生自治会であつた。学生自治会は、昭和五二年九月中旬頃発行した「討論資料全協解体から学生自治の拡大・確立へ」と題するパンフレツトの中で「医大の教育、研究、医療の荒廃状態を指摘し、昭和四四年に確立された全協体制が右の改革にあたつて極めて無力であつたこと、むしろ全協体制は、不正入学の実態が露呈され、その真相が明らかにされることによつて、真の意味での医大改革の進行することを恐れた医大当局が、学生達の不満を封じ込めるためになした巧妙な学生管理対策でしかなかつたのであり、しかも、それが助講会にとつて自らが多数派となつていくための単なる手段に過ぎなかつたこと、したがつて全協体制の下では、医大改革などは期待できなかつたものであり、医大の荒廃状況が進行したのも当然であること、真の医大改革を目指すためには、不正入学を容認してきた無責任な医大運営をそのまま承継した全協体制を根底から問い直す必要があり、そのためには現時点において不正入学の全貌を明らかにする必要がある」旨を論じた。そして、学生達は、現に行われようとしている医大の改革が昭和四四年当時と同様の形で空念仏に終ることのないように、不正入学問題につき、昭和四四年当時から教授であつた者と話し合つて責任のある回答を求め、一方でストライキを実施しながら各科教授との話し合いを続けていつた。

(c) 学生らの右のような問題提起を受け、昭和五二年一〇月初旬には、妻鹿衛生学教授ほか二名の教授が、不正入学を容認していたことを認め、更に、鳥居化学教授ら九名の教授連名で「医大における不正入学問題に関し、不正入学を含め、関係者全ての氏名の公開をも許さぬ覚悟でその真相糾明、全容解明を行なつていく」旨の確認書を提出したり、また、同月一三日には、教授団が、学生自治会に対し、「医大の不正入学問題に関し、その真相糾明に努力することは当然のことであり、原則として不正入学者の氏名をも含む資料公開に同意する」旨の確認書を提出し、同月一九日までに二七名の教授が右確認書に署名をした。

そして、同月二五日に開催された第一四回教授会において、「本学の教授会は、管理運営の任にあつたにも拘らず、ここに課せられる重責を省ることもなく主体性に乏しい中で、大学自治の認識にも欠けた運営を行つてきた。このような事が昭和三三年から同四三年に至る寄付金入学を許容させた。右のような教授会の姿勢が教授会代議員会の中にも持ち込まれ、各教授の責任感に一層の希薄を招き、今日に至つた。これらの反省をふまえて、教授各自は、責任の重さを自覚し、大学の管理運営に臨むとともに、大学の自治の確立のために努力する」旨の声明を確認した。

その直後である、同年一一月一日新たに発足した教授会も、同日、右声明と同趣旨の声明を採択し、更に、右教授会において、不正入学成績順位に関する資料を学内に公表することを決定した。

(d) 右のような新教授会の声明が採択されるに至るまでには、根強い反対勢力の抵抗がある等困難な事態も存したが、精神科教室は、有岡教授を中心として右方針の決定に主導的な役割を果した。

(3) 県当局の介入とその後の動き

(a) ところが、右のような医大の動きに対して、奈良県当局は、これを停止させるべく、同年一一月五日、県衛生部長名で「大学の秩序の回復及び運営の正常化について(通知)」と題する書面を出し、医大入学者の選抜にかかる諸資料を公開することのないように「適切な措置」を講ずべきことを迫るなどの介入行為を行なつた。

右県の措置に対し、同年一一月八日に開催された第二回教授会において、「右通知が大学の自治への不当な介入である」旨の抗議声明を出すべしとする提案がなされたが、県当局の行為は当然であるとの論も出て、結局、右提案は可決されず、却つて、同会議中、岡島必尿器科学教授か、第一外科学、第一内科学、泌尿器科学、小児科学、産婦人科学、眼科学、放射線科学、がんセンター腫瘍病理学、がんセンター腫瘍放射線科学の九教室連名による声明文を読み上げ、堀学長らがあたかも大学を崩壊させようとしているかの如く極めつけたうえ、同学長に対する不信任動機を提案した。そして、右動議は挙手多数で可決されるに至つた。

右九教室連名の声明文並びに堀学長不信任動議の提案は、いずれも不正入学問題解明が大学のゆがんだ体質の暴露になることに恐れをなした教授、助教授、講師、助手らがなんとかしてこれを押しとどめようとしてなしたものに他ならない。

(b) 右のような教授会のとつた行動に対し、精神科教室は、同年一一月一六日、「太学の再生を願つて」と題する文書を配布し、医大改革にあたつては不正入学問題の解明が不可欠の前提条件であり、堀学長を中心とした大学関係者もこれを了承して右問題解明に着手することになつたこと、しかるに県当局が右解明の動きに介入し、医大の一部教室においても、右県当局の介入を排除することなく、むしろ積極的にこれを支持して不正入学問題解明を押しとどめようとしていることなどを指摘し、前記の如き堀学長の不信任動議提案等の動きが、結局、医大をして再び過去の腐敗した大学へ逆行させることになる旨を警告した。

(c) 当時、右不正入学問題については、奥田奈良県知事自らが関与していたため、この問題が解明されることは、単に医大の歪んだ体質を白日のもとにさらすことになるだけでなく、奈良県政そのものの歪んだ体質をも明らかにさせる関係にあつた。そのため、県当局者にとつては、医大不正問題解明の動きを終息させるため、そのきつかけをつくつた精神科教室に対し何らかの圧力を加える必要があつた。

(d) ところで、堀学長は、同年一一月二二日、辞表を提出し、これが教授会で承認されるや、梅垣健三病態検査学教授が県当局の意向を体して学長事務取扱に就任した。その結果、医大は、後記のとおり、全協体制よりも更に反動化した事態へと進むことになつた。

(4)(a) 同年一一月二五日付で学長事務取扱に就任した梅垣教授は、その就任後、従来の民主的な取扱いないし教授会規程をすべて撤廃したうえ、教授会が各教室内の人事にも介入しうるなどの体制をとつた。

(b) まず、梅垣教授は、右就任後の同年一一月二九日に開催された第四回教授会において、全協体制のもとにおいては公開が原則であつた教授会の審議について「人事に関する審議事項は非公開としたい」旨の提案をし、その際、一部教授会員や傍聴者から、人事に関する審議事項とは何か、これがやがて教授会を全協体制以前の非公開へと後退させるきつかけとなるのではないかなどの反論もなされたが、十分な議論をなされることなく、梅垣教授の右提案が承認された。

次いで同年一二月六日の第五回教授会において、右承認にもとづき部局長事務取扱が非公開で選任され、また不正入学問題についても「氏名公表は行わない」旨の梅垣学長事務取扱の意見表明が承認された。

かくして、学内にあつた不正入学問題解明の気運を破壊するという梅垣体制の基本方針は確立された。

(c) その後の同年一二月一三日開催された第六回教授会においては、公開議題として公示されていた「懲戒委員会設置について」の議題を非公開審議に切りかえたうえ、「八・九暴力事件」等に対する懲戒委員会の設置と右委員会委員の選考を梅垣学長事務取扱に一任する旨の決議がなされた。

精神科教室員は、梅垣学長事務取扱の右のようなやり方に対し、当然ながら非難の声をあげたのであのである。

このような経過のもとで、昭和五三年一月一〇日、第八回教授会が開催されたが同教授会において、梅垣学長事務取扱は、前記の教授会規程を無視して、公示もせずに、いきなり「既に三回の教授会が流会になつており、このままでは正常な大学運営ができない。従つて、当分の間同規程八条を凍結し、傍聴を禁止したい」旨提案し、それが同会議で強行採決された。また、同年二月七日開催された第一〇回教授会において、従前学生を含めた全職員が参加するという学長の選考に関する制度(学長選考規程)の変更(学生らは参加できない)が提案され、可決された。

(d) 次いで、昭和五三年四月一一日に学長選挙が行われ、正式に梅垣教授が学長に選任され、就任した。

かくして、梅垣体制が確立されるに至つた。

(e) 県当局の意を体した梅垣学長事務取扱ないし、同人に歩調を合わせる教授らの採つた右措置に対し、精神科教室は、大学の自治の確保、民主的な大学運営の確立という趣旨に全て相反するものであるとして、真向から反対したことはいうまでもない。

(5) 精神科教室に対する弾圧

(a) 精神科教室は、右反対行動や大学運営の民主化の点だけに眼を向けていたわけではなく、一方では医療教育の充実、医療研究体制の整備、医療行為の適正化の実現のために努力を続けたのであるが、大学当局は、精神科教室の極めて当然な右行為についても妨害をはじめた。すなわち、

(b)(イ) 昭和五三年一月二四日付で文部省大学局長が公告した公立大学在外研究費公募に、精神科教室の野田講師が応募しようとしたところ、当時の梅垣学長事務取扱は、右公募の単なる窓口業務を行なう権限しか有していなかつたにも拘らず、同講師に事前に何らの連絡もしないまま勝手にこれを保留とし、応募期限の二月一八日を過ぎてから、懲戒委員会の対象になつているかも知れない人物であるから推せんしなかつた旨通知してきた。そのため、同講師は応募することができなかつた。

(ロ) 奈良県知事は、昭和五三年九月に、医大病院については、来年度以降、約五〇億円を投じて改築し、県内最高の医療機関にレベルアツプを図る意向である旨表明した。ところが、教授会で昭和五三年度の病院改築予算の最重点項目の一つとされていたにもかかわらず、県知事の表明中には、精神科病棟の改築のみがはずされていた。右精神科病棟の改築ができなければ、精神科教室がそれまで真摯に検討してきた医療構想を実現することは不可能である。右は県当局のいやがらせ以外のなにものでもなかつた。

(ハ) また、従前、医大における助手人事は、各教室の自主性に任されており、主任教授の内申によつて決定し、教授会にはその結果が報告されるだけといつてよいほど極めて形式的なものでしかなかつた。したがつて以前は、主任教授が推薦した助手候補がいかなる理由であつても否決されたことはなかつた。

ところが、昭和五三年九月二六日に開催された第八回教授会において、精神科助手ポストに空席があつたため、同科教室の主任である有岡教授が、原告は教室運営のため是非必要な人材であり、助手として採用願いたい旨提案したところ、原告は人格の一部に問題があり、これからも暴力的所為に出るおそれがある旨の反対意見があり、採決の結果、同提案は、同会議によつて拒否されてしまつた。右のような教授会の経過は異例のことであり、納得し難いものであつた。これも亦精神科教室の運営に対する妨害であるといわざるをえない。

(ニ) 精神科教室員野田正彰講師は、精神科における病棟医療等の改革を契機に大学運営の適正化を主張してきた精神科教室にあつて、その中心的役割を担つてきた。ところが、昭和五三年一〇月二四日開催された第一〇回教授会において、懲戒委員会(昭和五二年一二月一三日の第六回教授会の決議により設置されたもの)から「八・九暴力事件に関して」野田講師を懲戒免職処分にするのが相当である旨の報告がなされ、その他精神科主任教授有岡に対して訓告処分が、同助手中島に戒告処分をするのが相当である旨の報告がなされ、同会議は、右各報告を、いずれも承認をした。

ところが、右懲戒委員会が、右各処分を相当とする理由とした「八・九事件」の事態につき、右委員会は、その事実を歪曲、あるいは針小棒大に認識したうえで右各報告をしているものであるから、右報告自体、不当であり、また、一年以上も前の事態をその処分相当の理由にしていること自体、異常な事と言わざるをえない。梅垣学長ら大学当局の精神科教室ことに野田講師に対する悪意はおおうべくもないものであつた。

野田講師は、右教授会の直後、右のような措置に対抗して辞表を提出したが、これが抗議として精一ぱいのことであつた。

(ホ) その後、昭和五三年一二月一二日に開催された第一二回教授会において、精神科教室の有岡教授に対する分限免職処分を求める動議が、第一外科の白鳥教授から提出され、同日中に、右提案を可とする決議がなされた。

ところが、右手続は、「教授会の議案提出は、原則として学長が行い、教授会員より議案提出があつた場合、その都度教授会にはかり、その採否を決定する、議案の採用が決定されれば次回に延ばすことを原則とするが、当日の議題と関連するものであれば、その場で審議することとする」旨の教授会運営の申し合せ事項に反する処理であつた。すなわち、右分限の提案は、当日の議題とは、全く関連のないものであるから、右のとおり議題とすることにつき議決をしたところで、次回教授会においてその審議を行なわなければならないにも拘らず、右申し合わせ事項を無視して直ちに審議に入つたものである。そのうえ、同日の教授会に有岡教授が病気療養のため欠席していたのであるから、右分限に関する提案を採決に付するのは不適切であつたのであり、右の審議手続は、異常なものであつた。

にもかかわらず、右のように強行したのは、医大運営の適正化を願い主体的に運動を展開してきた精神科教室の主任たる有岡教授に対し、その報復としてつめ腹を切らせようという意図が存したからに他ならない。

そして、同教授も、ついに翌昭和五四年一月九日辞表を提出するに至つた。

(c) 右のような医大当局側の弾圧的措置によつて、昭和五三年九月当時、教授一名、助教授一名、講師一名、助手八名その他原告ら非常勤医、研修医をもつて構成されていた精神科教室は、同五四年一月現在においては五名の助手、その他非常勤医、研修医だけしかいないという状態になつた。

(6) 精神科教室に対する井川体制の導入

(a) その後、梅垣学長は、同学長の医大運営に反対する精神科教室を更に一層弱体化させるための新たな措置をとるに至つた。すなわち、同学長は自己の出身校である慈恵医大より井川玄朗(以下、井川助教授という。)を助教授、山根隆を講師、そして杉原克比古を助手として採用することを企図し、昭和五四年二月一三日開催された第一五回教授会において、精神科教室には何等の連絡も協議することもなく、右の人事案件を提出し、同会議は、同日同案を承認した。従来、精神科教室の運営は、教室内規の定めるところにより同教室会議における多数決をもつて決定されることになつていたのであり、このことは梅垣学長も熟知していた筈である。もし同学長の意図が教室スタツフの補充による医療の充実を図ることにあつたとすれば、右井川らの採用にあたつても、あらかじめ精神科教室と協議を行つて然るべきである。同学長が精神科教室に対し右の如き連絡も協議もしなかつたのは、井川らの採用により残存する教室員を一掃しようとする別の意図を有していたからにほかならない。

(b) 更に、梅垣学長は、右第一五回教授会において井川らの採用を決定した直後、ひき続き精神科教室の教授会員を稲田助手から井川助教授に変更する旨の提案を行なつた。

ところで、昭和五三年一一月一日制定の医大教授会規程は、その組織に関し、次のように定めている。

「教授会は、学長及び次の各号に掲げる者(以下、教授会員という)をもつて組織する。

一、教授及び授業科目主任である助教授の全員

二、各教室から選ばれた各一名の教員(前号の教授及び助教授を除く)

教授会規程が右のように定めたのは、教室内自治を保障しようという趣旨によるものである。したがつて教室から選出された教授会員を教授会自らが教室と無関係に変更することはできないのである。

にもかかわらず、梅垣学長は、右教授会規程を無視して右の如く精神科教室の教授会員の変更を提案したのである。

(c) 井川助教授ら三名の新教室員は、昭和五四年二月一九日医大に着任した。その翌日である二月二〇日、早速に新教室員をまじえた臨時教室会議が開催されたが、井川助教授らは、すでにあつた精神科教室内規を認めないという態度をとり続け、その後の臨時教室会議においても、頑としてこの態度を改めようとしなかつた。

そのため、同月二三日の臨時教室会議以降は、事実上、精神科教室は、井川助教授ら新教室員と、従前からいた者とに二分されたような形になつてしまつた。

(三) 本件処分

以上のような経過をへて、昭和五四年二月二七日、第一六回教授会が開催されることになる。同教授会の席上、梅垣学長は、緊急動議を提出し、原告ら精神科教室員が井川助教授ら三名の新教室員に対して非協力的である旨不当なきめつけをしたうえ、原告らの身分を取消したいと発言し、同会議において、即日、同案を承認する旨の決議がなされた。かくして、本件処分がなされたのである。

(四) 本件処分の不当性

従来医大では不正入学問題に象徴されるようにその運営が極めてルーズな形で行われてきたものであるところ、精神科教室は、教室改革を進めるなかで、医大全体の運営の建て直しを図るべきである旨の問題提起をなし、その一環として、不正入学問題の解明にも積極的役割を果して来たものである。ところが、右のような精神科教室の行動を嫌悪する医大当局(県自体を含めて)ないし梅垣学長は、将来再び不正入学問題解明や大学改革の気運のたかまるのを防ぐため、同教室解体に向けて、前記のとおり、様々な画策をなしてきたのである。原告に対する本件処分も、右のような意図に基づいてなされたものにほかならない。

右のような動機をもつ、本件処分には、何等の正当性も認められない。

本件処分は、その権限を濫用してなされたもので、その違法性は明らかである。

六 原告の反論に対する認否

1  原告の反論1冒頭の主張は争う。

(一)(1)(a) 同(一)(1)(a)の事実は認める。

(b) 同(1)(b)の事実は争う。

(2) 同(2)の事実のうち、昭和四三年まで医大において寄付金入学が存したことは認め、その余の事実は否認する。

(二)(1) 同(二)(3)(a)の事実のうち、昭和五二年一一月八日開催された第二回教授会において、堀学長の不信任動議が提案され、それが挙手多数で可決されたことは認めるが、その余は争う。

(2)(a) 同(二)(4)(a)の事実のうち梅垣教授が昭和五二年一一月二五日付で学長事務取扱に選任されたことは認めるが、その余は争う。

(b) 同(4)(b)の事実のうち、昭和五二年一一月二九日第四回教授会が開催されたことは認めるが、その余は争う。なお、教授会においては、人事に関する事項は、非公開とされていたが、右会議は、精神科教室員らの激しい議事妨害により流会の止むなきに至つた。

(c) 同(4)(c)の事実のうち、昭和五二年一二月一三日第六回教授会が、そして翌一月一〇日に第八回教授会が開催されたことは認め、その余の同八回教授会における審議内容は否認する。なお、第六回及び第八回教授会は、精神科教室員らの激しい議事妨害のため流会の止むなきに至り、とくに、第八回教授会においては、提出議案はすべて、審議不能という事態であつた。

(d) 同(4)(d)の事実は認める。

(e) 同(4)(e)の事実は否認する。

(3)(a) 同(5)(a)の事実は否認する。

(b) 同(5)(b)の事実のうち、昭和五三年九月二六日に第八回教授会が開催されたこと、そして、同年一二月一二日に開催された第一二回教授会において、精神科主任教授の有岡教授に対する分限免職処分の動議が提案され、同案件がそこで可決され、その後、同教授は、翌五四年一月九日に辞表を提出していることは認め、その余の「八・九事件」に関する原告の主張事実及び右有岡教授に対する処分意図に関する事実等は否認する。なお、第八回教授会は、度重なる退去命令に拘らず、混乱に陥つたため、止むなく閉会となり、また、有岡教授に対する右処分の動議提案理由は、精神科の最高責任者として果すべき責任を果していないということであつた。

そこで、学長は、右のような教授会の混乱を慮つて、同月二八日付書面をもつて全大学人に対し、節度ある行動を要望する旨の警告を発したものである。

(4)(a) 同(6)(a)の事実のうち、昭和五四年二月一三日開催された第一五回教授会において井川玄朗を精神科助教授に、山根隆を同科講師に、そして杉原克比古を同科助手として採用する旨提案があり、それを承認したことは認め、その余の事実は争う。

(三) 同(三)の事実のうち本件処分がなされたことは認めるが、第一六回教授会の席上で梅垣学長が「原告ら精神科教室員が井川助教授らに対して非協力的である旨」の不当なきめつけをしたという点は否認する。

(四) 同(四)の事実は否認する。

第三証拠関係〈省略〉

理由

第一本案前の主張について

一  請求原因1(一)の事実のうち、原告が、昭和五二年七月医師免許を取得し、同年五月一日以降医大研修医の地位にあつたこと、原告のように医大研修医となりたる者は、医大付属病院において医療行為に従事した場合、右行為に対して協力金の支給を受けていること、及び同2の事実は、当事者間に争いがない。

二  ところで、被告は、原告の本件訴えにつき、訴えの利益がない旨主張するので、まず、この点から判断することとする。

抗弁1(二)の事実は、当事者間に争いなく、また、成立に争いのない乙第一、第二号証、同第一一号証、同第二〇号証、同第二二号証の一ないし三及び証人薮田忠昭の証書、原告本人尋問の結果、並びに弁論の全趣旨によれば、医師法一六条の二の一項によると、医師は、免許を受けた後も、二年以上、同条所定の大学の医学部付属病院等において臨床研修を行なうように努めるものとする旨規定されているところ、右臨床研修制度は、従前のインターン制度に代つて設けられたもので、それは主として医師免許を取得した直後の医師をして適切な指導責任者のもとに診療に関する知識及び技能を実地に練磨し、医学の進歩に対応して自ら診療能力を開発しうる基礎を養うとともに且つ医療における人間関係についての理解を深める等医師としての資質の向上を図ることを目的とするものであること、右研修期間については、昭和四三年七月一六日付厚生省医務局長通知では「研修は継続して二年間行なうことを原則とする」旨規定し、更に、前記医師法一六条の二を受けた医大研修医規程三条には「臨床研修医の臨床研修期間は、医師免許取得後二年とする」旨規定していること、同規程九条によれば、臨床研修医が附属病院の診療に協力したときは、研修医に対し、前記のとおり、診療協力金が支給されることになつているところ、その金員の予算上の措置は、一般職の地方公務員の給与と異つているものの右労務提供の対価として一定額の金員(原告の研修医当時は金一〇万六三五〇円)(但し、定められた日数(一か月につき二〇日)よりも、その従事日数が少ない場合には、その不従事の日数に応じて減額されることとなつている。)が支給されていること、ところで、原告は、昭和五二年五月一日から同五四年四月三〇日までの二年間ということで、被告から臨床研修医となることを許可されたが、本件処分により、約一か月と二〇日余り右研修に従事することができないこととなつたこと、更に原告は、本件処分に伴い、解雇予告手当(金一四万九三三三円)の支給を被告より受けたが、その金額は、本件処分がなされなかつた場合に原告が支給を受け得たであろう金額よりも、少なくとも数万円低いことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。そして右認定事実及び前記当事者間に争いのない事実を総合すれば、医師法一六条の二によつても、医師が臨床研修を行なうことは、法的義務と解することはできず、臨床研修をすると否とによつて、医師免許の効力ないし医師の資格に消長を及ぼすものではなく、右研修を行なわなかつたからといつて法律上、格別の不利益を蒙るものではない。しかしながら、医師は、医療及び保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し、国民の健康な生活を確保することをその職分とするもの(医師法一条)であるところ、一方、医学も絶えず進歩し、発展するものであるから、医師としては、常にその知識及び技能の修得、練磨に努め、その水準の向上を図ることが望ましく、免許取得後も研修ないし再教育がなされるべく、これは社会的な要請でもあり、そのため前叙の如き目的を有する臨床研修制度が採用されたものというべきである。従つて、一旦、医師が臨床研修を行なうことを選択し、許可権者によつて、研修の許可が与えられた場合には、その研修は、医師免許を取得した直後の医師にとつてその技能の向上の絶好の機会であることはいうまでもなく、臨床研修の性質上一定した継続性が要求されること等からすると、許可権者は、許可した以上は、研修医の臨床研修の機会やその成果に対する期待(医師法一六条の三の一項によると、同法一六条の二の一項に規定する病院の長は、当該病院において臨床研修を行なつた者があるときは、この旨を厚生大臣に報告するものとすることになつており、国も研修制度の運営及びその成果如何について多大の関心を有していることが推測される。)をみだりに剥奪してはならないものというべきである。また、右研修期間も、右研修制度の目的ないしその制度創設の経緯からすると、いわゆる期限として二年間と限定されたものではなく、研修の目的を達成するために通常必要とされる最低限度の研修期間としての意義(医師法一六条の二によれば二年以上となつている)を有するものと解するのが相当であり、そして、協力金についても、その予算項目については、一般職の地方公務員の給料と相違あるものの、その計算方法(原則固定給)及び労務対価性などを考慮すると、右給料と実質的な性格は何等異なるところはないものと認められる。

そうすると、原告について、本件処分が取消されれば、原告は、同人に残された臨床研修期間につき、医大において、前記趣旨の研修を継続しうるうえ、医大における診療に従事するときは、その対価として協力金の支給を受けえるものとなるところ、そのような原告の享受することのできる利益は、法的保護に値するものと解すべきものであるから、原告は、本件処分の取消を求める法的利益を有するものと認めるのが相当である。

第二本案について

そこで、本案につき判断する。

一  本件処分に至る経緯

(一)  医大が昭和二〇年三月に設置された奈良県立専門学校を前身とすること、昭和二三年二月旧制医科大学として発足し、昭和二七年四月新制医大となり、その後大学院が併設され、その付属施設として同医大付属病院、同ガンセンター、同図書館、同看護専門学校が設置されたことは当事者間に争いがない。

(二)  しかるところ、成立に争いのない(但し、写については原本の存在とも)甲第一号証の一ないし三、第二ないし第九号証、第一〇号証の一、二、第一一号証の一、二、第一二号証、第一三号証、第一四号証の一、二、第一五号証、第一六号証、第一九ないし第三〇号証、第三五ないし第三七号証、第三九ないし第四二号証、第四五号証、第四六号証の一、二(写)、乙第五号証、第一一ないし第一四号証(写)、第一六号証(写)、第一九号証(写)、第二三号証、原告本人尋問の結果により成立の認められる甲第一七号証の一、二、第一八号証、第三二ないし第三四号証、第三八号証、第四四号証の一、二、第四七号証の一、二、第四八号証、証人石川兵衛の証言により成立の認められる乙第二四号証、同山本稔の証言により成立の認められる同第二五号証、同井川玄朗の証言によりその成立の認められる同第二六号証、弁論の全趣旨により成立の認められる同第一〇号証、第一五号証、第二七、第二八号証、証人石川兵衛、同山本稔、同井川玄朗、同白鳥常男、同榎泰義の各証言及び原告本人尋問の結果(但し、後記措信しない部分を除く。)並びに弁論の全趣旨によれば、左記の事実が認められ、原告本人尋問の結果中、右認定に反する部分は措信できず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

(1) 従来、医大においては、その設備拡充のための予算が充分でなく、昭和三三年以降においては私的団体である医大後援会の援助金や、合格点に達しない受験生に対し、入学させることを条件に納入させた寄付金(昭和三三年から昭和四三年までの間、入学者の三分の一以上に該当する約二七〇名が不正に入学し、その寄付金は二億円を超えていた)に頼らざるを得なかつた(昭和四三年まで不正入学が行われていたことは当事者間に争いがない)。右不正入学の事実が昭和四三年五月新聞によつて報道されたことを機に医大の学生達によつて集会が開催され、抗議のための無期ストライキ等がなされたが根本的な解決を見るには至らなかつた。しかし、昭和四四年四月には、学生集会において学生の管理体制に対する批判として全学無期限ストライキをなすことが決議されるとともに、医大の民主的な運営を実現しようとする動きが助教授、講師の集りである助講会等においても起り、それぞれの改革案が示されるに至り、同年七月学生集会において医大管理運営への学生参加案が可決されてストライキも解除された。そして、右のような動きを反映して医大の管理運営体制が改革されることとなつた。すなわち、従来、医大の最高意思決定機関であつた教授会の上位に全学協議会が置かれ、同会において基本的な事項、殊に教授会の審議事項は必ず事前に協議することとなつた。又教授及び一部の助教授のみによつて構成されていた教授会自体も、学長、教授、助教授、常勤の講師及び助手をもつて構成され、その審議は、本学の非常勤講師、職員、大学院生、研究生、専修生、学生等に公開され、しかも、議長の許可を得てそれ等が発言し得ることとなつた。そして、教授会の代行機関として、教授、授業科目主任の助教授全員及び右員数に各一を加えた助教授、常勤の講師、助手をもつて構成する教授会代議員会が設置され、教授会の付託を受けて教授会の審議事項につき教授会同様公開で審議し、その議決は教授会の議決とみなされることとなつた。

(2) ところで、右のような改革後においても、精神科病棟においては、病棟の機構や看護体制自体、卒後研修や看護婦研修の在り方等について改革すべき点があり、昭和五一年頃から除々に卒後研究体制や病棟医療の面での種々の改革がなされた。ただ、病棟の物的設備の拡充等医大全体の問題として考えなければならない問題については、精神科教室としてその改革を、昭和五二年六月二二日、当時の堀学長に訴え、それを受けて同学長が同年七月一二日開催の第六回教授会代議員会において医大運営の在り方について再検討すべき旨の発言がなされた。右発言を受けて、医大の各組織のなかで、医大の運営のあり方などにつき検討されることとなつた。そのうち、助講会では、同月二五日助講会常任委員会を開催し(当事者間に争いのない事実)、そこで、同会が、これまで、無責任な立場で医大の運営に関与してきたことにつき反省をなしたうえ、今後、医大の運営には参画しないことを決議した。ところで、右助講会の席上、同会の常任委員として出席していた富田晋生理科学助教授が、右助講会のこれまでの活動については、留学していたため、知らない旨の発言をしたことに対して、同会議にオブザーバーとして出席していた原告が、まず、無責任な態度であるとして批判をなし、それに続いて、原告と同じ立場で出席していた他の精神科教室員も、厳しく批判した。そのため、同助教授は、その場に止まることができず、同会議より退席した。また、助手会は、同月一三日及び同年八月八日助手会世話人会を開催し、そこで、これまでの助手会の活動のうち医大運営のなかで行つてきた活動につき討論がなされ、とくに同月八日の会議のなかでは、当時学長から助手会に要請されていた看護専門学校長選考委員会の委員選出につき討論がなされたところ、その際、右会議にオブザーバーとして出席していた山尾、稲次両助手が交互に右の議題につき全協体制は、必ずしも機能していないことはないので、同会においては委員を選出すべきである旨の意見を述べたが、結局、右選出については助手会として辞退するとの決議がなされた。その際、同会議にオブザーバーとして出席していた原告が、右山尾助手に対して、同人の意見に反対する旨の反論を加え、会議終了後、原告と山尾助手との間でこぜり合いがあつた。

(3) 昭和五二年八月九日開催された第一回代表者会議においてオブザーバーとして参加していた稲次助手の議事開始前の全協体制等についての発言が、堀学長の許可を得てなされたとはいえ、仲々終らず同学長の制止があつたにも拘らず、そのまま続けられたため、原告が、議事妨害であるとして、その発言を止めるように稲次助手に対し強く注意したところ、同助手は、それを聞き入れることなく、却つて、原告に対し、前日原告が山尾助手に対し、暴力を振つたとして非難をしたことから、原告は同人に対し、その顔面を右手拳で一回殴打したうえ足蹴りにする暴行を加え(右行為に対し稲次が告訴し、奈良簡易裁判所より罰金二万円が科せられている)(原告が稲次助手を殴打し、それに対し同助手が告訴し、罰金刑が科せられたことは当事者間に争いがない。)、そのこともあつて、同会議場は騒然となつて、混乱状態が続いた。しかし、その後、議事に入り、堀学長がまとめた精神科病棟の改築を含む八項目の提案がなされ右提案に対し、それは精神科教室の意見にひきづられたものであつて、正当なものでないとの反対意見を持つ者もいたが、前記精神科教室員ら、同会議にオブザーバーとして参加していた者の無言の圧力等によつて、その反対意見は、押えこまれ充分な討論がなされないまま、同提案が同会議において承認された。

(4) 右学長ないし精神科教室員を中心とする医大の急進的な改革の動きに対して反対する者もいたが、そのうち、第一内科、第一外科及び中央臨床検査部の三科は、「右八月九日の代表者会議の混乱時に原告を含む精神科教室員数名が暴行をなしたが、そのような暴行行為は是認することができない」趣旨の声明文を同月一五日付で出して、原告ら精神科教室を非難した。そこで、原告を含む精神科教室員らは右三科声明や稲次助手のなした告訴の件を批判し、更に意見を求めるため、同月一六日、同声明を出し、そして、稲次助手の所属する付属病院第一外科医局に赴き、一〇名位の第一外科の医局員に対し、前記声明文につきまず意見を求めたが、とくに、これと言つた反応もなかつたため、フラツシユをたいて同室内の状況の写真を撮り、また、第一外科医局員の氏名や医局内の備品の位置などをメモするなどして同室に留まり、そのため、右医局内での第一外科医局員の執務を妨害することとなつた(原告らが同医局へ赴き、写真を撮つたことは当事者間に争いがない。)。そして、同日、午後七時ころ、右と同じ趣旨から、原告、田川、中島、太田の各助手が、第一外科と同様、前記声明を出し、山尾助手が当時所属していた付属病院第一内科医局に赴いたところ、そこでは、ドアの錠を締めて臨時医局会が行なわれていた。そこで、原告らは、同医局のドアを叩き、「中に入れろ、ここは大学の建物だ、官憲の手先」などと怒鳴り、また、第一内科ないし、同科教室員を中傷するなどしたが、同科においては、原告らと話し合う意思がなかつたため、原告らの入室も拒否する旨伝えた。しかし、原告らは、それにも拘らず、同医局の最上段のガラス窓ごしに顔を出し、右と同様の行為をしたため、同医局では、やむなく、五分間ということで時間を制限したうえ、その入室を認めた。入室後、原告らは、前記三科声明のことや、告訴の件についてそこにいた第一内科の医局員の意見を求めたが、それに対して、とくに応ずる者もいなかつたので、そこの掲載物をはがしたり、また、第一内科教室医局員の名簿等を写真で撮影するなどして、約二〇分間位、同医局会を中断させた。その際、右事態を聞いてかけつけた堀学長から、原告らに退室要請がなされたため、同人らは、一旦そこを退室した。しかし、原告と中島助手は、再度、同医局に赴き、その際も、入口で第一内科教室医局員らと押し合いとなり、強制的に入室したところ、そこで、同医局員から、医局会の最中であるからと言つて再三にわたりその退室を要請されたにも拘らず、そこに約一時間程度留まり、「我々の仲間を官憲に売つた奴に同調する奴の顔を見せてくれ」などと怒鳴つたり、また、そこにあつた机をたたくなどして、同内科医局の医局会を妨害した。そのため、同医局会は、中断するに至つた(原告らが同医局に入り、一旦退室した後再び同医局に入室したことは当事者間に争いがない)。また、原告、森口他数名の精神科教室員は、当時の第一内科教室の責任者であつた石川兵衛教授に、右三科声明と、右声明後出された学長声明(稲次助手の議事妨害について認めた内容の声明)との齟齬につき意見を求めるため、同人との面会の機会を探つていたが、仲々、その機会をとらえることができなかつたため、同月一八日に同教授が外来診察をしていて、その患者が途切れた際、第一内科の外来診察室に入り、前記齟齬する事実について意見を求めた(原告らが同教授と面接したことは当事者間に争いがない)。しかし、石川教授は、原告らの問に答えることなく、同人らの退室を求めた。ところが、原告らは、そこに約一五分位留まり、そこで、前記堀学長の発した声明文をひろげ、同教授の顔に接するぐらいにそれをくつつけ、更に「どう思うか」などとつめよつたり、また、にらみつけるなどの行為を行ない、その診療事務を妨害した。そして、更に同日、原告、田川、森口ら精神科教室員は、やはり右と同様、前記三科声明と学長声明との齟齬につき意見を求めるため、付属病院第一外科医局に赴き(原告らが同医局に入室したことは当事者間に争いがない)、そこで、論文を書いていた高橋精一外科助手に対して、学長の声明文をどう思うかなどとつめより、また、威力を示して、同人を同医局内の手洗場のところまで押しやつた。右のような、原告ら精神科教室員の学内での行動、とりわけ、暴力的、脅迫的行動に対して、如何に対処すべきか相談をするため、第一外科と第一内科の各教室は、合同で医局会を持つこととなつたが、精神科教室員の妨害行為のため医大での会議の開催は困難な状況にあつた。そこで、両科では、同月二〇日「釣りの会」という名称で橿原市立中央公民館の部室を借り、そこで、午後二時より両科の合同医局会を開催する予定にしていたところ、同日午後二時二〇分ないし三〇分ごろ、原告、田野島、中島の各助手他数名の精神科教室員が同会場に乱入した(同日同公民館で合同医局会が開催され、原告らが入室したことは当事者間に争いがない)。その際、そこにすでに集合していた第一外科、第一内科の各医局員から、原告らに対し、退室を求められたが、原告らは、右要求に従うことなく、そこに留まつたうえ、大声で怒鳴つたり、また、すでに着席していた第一外科、第一内科の各医局員らの写真を撮つたり、そして、どうしてこんなところで医局会をしているのかなど、詰問を繰り返すなど、会場の混乱状態は約三〇ないし四〇分位続いた。右のような混乱は、右事態を聞いてかけつけた堀学長の制止により、やつと収つた。

(5) 右のとおり、昭和五二年八月当時、堀学長ないし精神科教室を中心とする急進的な医大改革派と、右の立場に反対する者との間で反目が存したところ、学生らのうち、学生自治会は、右精神科教室とほぼ同じ考え方をもつて、医大の改革を意図していた。とくに、同自治会は、前記のとおり右精神科教室の見解に加えて、同年九月に、従前医大において行なわれていた不正入学問題の解明を医大改革の出発点とすべきであり、また、そうでなければ、医大の真の改革はできない旨主張し始めた。そうした問題提起に対して、原告ら精神科教室員も、右自治会と同様の認識を持つようになり、両者が協力してその解明を進めることとなり、その真相究明にとつて、不正入学者の氏名を含む資料公開が不可欠である旨学生自治会は主張し、右主張を貫徹するため各教室の教授らと面接を繰り返し、一部では、かなり強引に右主張に同意する旨の確認書をとつていた。そして、その後の同年一〇月に開催された代表者会議においては、オブザーバーとして参加した精神科教室員、学生自治会のメンバーら主導の下で、医大の改革と不正入学問題の解明等を進めてゆく旨決定され、また、翌一一日開催された教授会においても、右と同様の状態下で、右代表者会議と同趣旨の決議がなされ、その決意を表明した。右のような医大内部の動きに対して、県当局は、同月五日付衛生部長名義の「大学の秩序の回復及び運営の正常化」と題する(通知)書面で、学長に対し、医大の秩序が著しく乱れていることを指摘したうえ、その正常な運営のため適切な措置を講ずることを要請するとともに、不正入学問題に関して、その氏名、とくに卒業生ですでに医師として活動して活動している人の氏名の公表を行うことは、社会的にも大きな混乱を生ぜしめるものであつて、地方公務員法三四条に抵触する旨の注意を促し、そのうえで右のような措置を採ることは不適切である旨の通知を出した。また、医大内においても、右精神科教室員らの考え方を支持していた堀学長に対して、同年一一月八日の教授会で不信任動議が提案され、即日、同会議で、右動議が可決され(当事者間で争いのない事実)、また、右学長や、精神科教室そして学生自治会の考え方や行動に反対する第一外科学教室、第一内科学教室、泌尿器科学教室、小児科学教室、産婦人科学教室、眼科学教室、放射線科学教室、がんセンター腫瘍病理学教室、がんセンター腫瘍放射線科学教室の九教室が、同一一月八日に、そして、右教室に加えた第三内科学教室、病態検査科の一一教室が同月一一日に、右学生自治会、精神科教室そして学長(但し、学長は後記行為を容認してきた。)の改革の名の下になされた暴力的、脅迫的行動ないし、氏名公表を含む不正入学問題の解明の動きに対して、それらの行為は、正当性を欠き、学内に多くの不信と混乱をもたらした旨非難する趣旨の声明文をそれぞれ出した。なお、右県衛生部長の通知に対しては、右一一月八日の教授会で、精神科教室等から県当局の大学の自治に対する不当な介入行為である旨の抗議声明を出すべきとする議案が提案されているが、それは、右衛生部長の行為が大学の自治に対する介入には該当しないという見解に押され、その結果、否決されている。右のような精神科教室をとりまく動きに対して、精神科教室は、同月一六日、右のような行為(動き)が、大学再生の道を鎖すものであり、また、不正入学問題解明に対する妨害行為が、県当局の医大を私物化してきた事実をそのまま容認する結果となるものであつて、それが大学の自治確立の大きな妨げとなるものである旨の警告を発した。

(6) ところで、右精神科教室の警告が出された後も、それによつて事態に変化が生ずることはなかつた。却つて同教室等に反対する勢力がその力を伸ばしていた。すなわち精神科教室や学生自治会の考え方に反対する梅垣教授が、同年一一月二五日付で医大学長事務取扱に就任し(同教授が学長事務取扱に就任したことは当事者間に争いがない)、また、同月二九日に第四回教授会が開催され(当事者間に争いのない事実)、そこで、人事案件についての審議が予定されていたところ、人事に関する事項は秘密事項であるとする同学長事務取扱の提案に対し出席会員の挙手多数で非公開とされることとなつたが、右非公開とすることに対しては、精神科教室員ら同会議のオブザーバーから反対意見等が述べられ、右議決の後も、右反対意見を固執して強硬に主張したため、議事進行への収拾がつかず、同日の会議は流会となつた。そして、翌一二月六日開催された第五回教授会(当事者間で争いのない事実)で前記問題につき、梅垣学長事務取扱と同様の見解をもつ部局長事務取扱が非公開で選任され、また、その会議の席上、同学長事務取扱が、「不正入学問題に関し、その氏名公表のもつ社会的影響の重大性、及びプライバシーを慮つて、その公表は行なわない」旨の意見表明を行なつた。また同月一三日開催された第六回教授会では、前記八・九事件を調査するため具体的には、同事件に関与した原告ら精神科教室員を懲戒するため懲戒委員会を設置するか否か非公開で審議されたがそれを設置すること、そして、その委員は、学長事務取扱に一任することで議決された。ところが、右事項について、同会議にオブザーバーとして出席していた学生及び精神科教室員らから、右懲戒委員会設置の成否は、人事の秘密とは関係がないので、それを非公開で審議、承認したとしても、効力がない旨主張し、他方、学長事務取扱ら執行部は、懲戒手続(調査を含み)は、人事の秘密そのものであるから、同委員会の設置の成否もまた人事の秘密に関する事項である旨主張するなど双方で激しく対立するところとなり、その点について結論を出すことができないまま、同会議もまた流会となつた。その後、同月二七日に第七回教授会が開催されたが、そこでも、右執行部等と精神科教室員らとの間で教授会の公開、非公開の範囲(とくに人事案件の秘密の範囲)をめぐり、厳しい対立があり、その結果、審議の続行が不可能となつたため、同会議も流会となつている。ところで、同会議では、執行部側の意思にそつて、人事案件は、当分すべて非公開とする旨の採択がなされた。そうした教授会での混乱やその原因(精神科教室員ら、同会議のオブザーバーの発言等)等を考え、梅垣学長事務取扱は、翌五三年一月一〇日開催された第八回教授会において、教授会を当分の間非公開とする旨、すなわち同会の公開原則を定めた同会規程八条を凍結する旨の提案をなした。右提案に対しては、とくに審議等を経ることもなく、直ちに賛否投票に移ることとなり、鳥居化学教授と富田第二生理学助教授が同投票の選挙管理委員に指名され、その賛否の投票に移ろうとしたところ、そのような行為に対して、発言を求めたり、反対意見を述べるなどした者もいたが、事務職員によつて、同会議に出席していた教授会員に投票用紙の配布が開始されたため、同会議にオブザーバーとして出席していた原告が右の投票手続に反対の意見を述べ、更に、右投票用紙を配布しようとしていた事務職員の手から同用紙を取り上げ、破り捨て、また、他の精神科教室員が投票箱をとり上げるなどの行為を行なつた。右のような行為を行なつた原告らに対して、梅垣学長事務取扱は、同会議からの退去命令や警告文を発するなどして、右混乱状態を終息させたうえ、右議事の進行を進め、その投票を終えたが、その結果によると、右学長事務取扱が提案したと同様の結論が承認されることとなつた(前記同日の同教授会が開催され、原告らがオブザーバーとして傍聴し、その際原告が事務員から投票用紙をとりあげ破棄したことは当事者間に争いがない)。

(7) その後、同年九月に、当時の奥田奈良県知事は、来年度(同五四年度)以降、医大病院の改築を含み、約五〇億円を投じて、医大の設備等の充実をはかる旨表明したが、その設備充実のなかには、前記堀学長が表明した提案のなかに要緊急事項として含まれていた精神科病棟の改築が除外されていた。そこで、原告及び森口精神科教室員は、右知事の表明等を受けて同年一月二九日に開催された昭和五四年度第一回予算委員会(非公開)に、精神科病棟の改築及び不正入学問題解明等の要望をするため、無断で入室し、事務職員(総務課長)などから退室を要求されたにも拘らず、右要求に従うことなく、そこに留まり、更に、原告らは、大声で、不正入学問題、県当局の医大への介入そして、精神科病棟改築等についてそれぞれが自説を述べた。その際、森口とそこに予算委員として出席していた山本教授との間で前記県衛生部長の通知の件(大学の自治に対する不当な介入か否かということ)で議論となり、同教授の意見が大学の自治に介入するものでないということで、右両者の意見の対立が明らかとなるに及んで、森口は、同教授に対し、「そのような考えを持つ者は予算委員と認めるわけにゆかない。出てゆけ」等と怒鳴つたうえ、同教授を退席させるため、同教授の背後よりその右脇に手を入れ、そして、原告も、右森口の行為に合わせて、同教授に出てゆけ等と怒鳴りながら、その背後よりその左脇に手を入れ、両者で同教授をかかえ、無理矢理席を立たせ、そして、同委員会の開かれていた部屋の出口のところまで引きづつてゆき、そこで、同教授から手を離すなどの行為を行なつた。右のような原告らの行為があつて、同委員会は、混乱し、その結果、流会することとなつた。

(8) ところで、同年九月二六日に開催された第八回教授会で、精神科教室の有岡教室において助手ポストに空席があつたため、原告を助手として採用したい旨の提案をなしたところ、同会議において、原告の前記のような暴力、脅迫等の行動をその理由として、否決されるところとなつた。ところで、同会議では、右のような議決がなされたものの精神科教室員が乱入したため、それらの者に梅垣学長事務取扱から退去命令などが出されたが、それにより議場が混乱し、その結果、更に、議事を進めることができなくなりやむなく同会議は閉会となつた。右のような精神科教室員の行動に対して、同学長事務取扱は、右のような事態が再び生ずることのないように、同月二八日付で警告書を発した。そこで、原告を含む精神科教室員からは、右助手人事に対する教授会での右議決につき、同学長事務取扱の意見を求めるため、同人と連絡をとろうとしたが、とれなかつたため、同年一〇月三日に開催された第九回教授会終了直後同会議のあつた大講堂前で同人を待つていたところ、同人が同所で待つていた車に乗るため出てきたので、その回りを取り囲み、そこで、口々に意見を求めるなどして、その乗車を妨害し、更に、学長事務取扱が乗車した後は、同車の回りを取り囲んだうえ(前記同日開催された同教授会の直後、梅垣学長が乗車しようとした際、同車を原告らがとりかこみ、前面に立つなどしてその発進を妨げたことは当事者間に争いがない)、同車を叩いたり、ゆさぶるなどして、その発進を一時間余り妨げた。そのため、学長事務取扱は、医大の事務局長に促され、やむなく、同県警察機動隊の出動を要請し、右要請により出動した機動隊によつて、右事態は解消された。右のような事態を惹起したことにつき、梅垣学長事務取扱は、精神科教室の責任者であつた有岡教授に対し、同月六日付書面で、監督者としての注意を促す書面を送付した。また、右書面とともに、梅垣学長事務取扱は、医大六年生クラス会より精神科教室に対して出されていた、昭和五三年度の履修要領及び授業時間表に沿つた授業を行つて貰いたい旨、の要望(当時、右授業は実施されていなかつた。)、並びに右要望に従つてなされた同内容の決議に基づき、有岡教授に対し、右履修要領及び授業時間表に従つた授業を行うべき旨の職務命令を出した。

(9) 原告は、同年一〇月七日、有岡教授の指示により、医大六年生の臨床実習の担当教官となり、精神科実習開始時間である午前九時半に、その集合場所である精神科病棟四階図書室で当日受講予定の矢島他三名を待つていたところ、同人らが二〇ないし三〇分位遅れて来たため、直ちに同人らに臨床実習に臨むにあたつての注意を与え、更に、その際、白衣のボタンがはずれ、右注意にも拘らず態度の悪かつた矢島には、注意を促したが、右態度に改善の様子も認められなかつたので、同人の患者に与える影響を慮つて、矢島に対し、退室を命じた。しかし、同人が退室しなかつたため、原告は強制的に同人を後ろからかかえて退室させようとしたところ、矢島は、怒つて退室したが、その際、同人は、右前腕、右手背部に擦過傷及び挫傷を負つた(当日受講予定の矢島らが集合時間に遅れたこと、原告が矢島らに注意を与え、更に同人に対し退席を命じ、同人を背後からかかえ退室させようとしたことは、当事者間に争いがない)。

(10) その後、同年一〇月二四日に開催された第一〇回教授会において、懲戒委員会から、前記八・九事件についてその調査報告がなされたが、そのなかで、野田講師に対しては、懲戒免職処分、有岡教授に対して訓告処分、そして中島助手に対しては戒告処分が相当である旨の内容が存したところ、右三者につき、右報告内容と同内容の処分の当否につき採決がとられ、その結果、右調査報告を追認する旨の結論が出された。

右のような決議に対して、野田講師は、やむなく、その直後に、辞表を提出している。

また、同年一二月一二日開催された第一二回教授会において、有岡教授に対し、前記原告を含む精神科教室員に対する監督、指導の不適切を理由に、分限免職処分の提案がなされ、同会議において、右提案を可とする旨の決議がなされた。右決議に対して、有岡教授もまた、翌五四年一月九日辞表を提出した。

(11) かくして、昭和五三年九月当時には、教授一名、助教授一名、講師一名、助手八名、その他非常勤医、原告ら研修医をもつて構成されていた精神科教室は、翌五四年一月末には、五名の助手、その他非常勤医、原告ら研修医のみとなつた。

(12) 右のような精神科教室の状態に対して、医大当局は、適切な診療を含む病棟の運営はできえないものと考え、精神科教室の教員補充を行なつた。すなわち、梅垣学長は、昭和五四年二月一三日開催された第一五回教授会において、いずれも慈恵医大出身の井川玄朗を精神科教室の助教授に、山根隆を同講師に、そして、杉原克比古を同助手に採用したい旨提案し、同会議で、右提案が可決された(当事者間に争いがない事実)。ところで、従来、とくに精神科教室内の人事については、同教室内の意見を聴取したうえ慎重な審議を積み重ねて決定されることになつていたところ、そのことにつき、梅垣学長も知悉していたにも拘らず、同学長は、前記提案をするに当つて、あらかじめ精神科教室の意見を聴くこともなかつた。しかも、同学長は、教授会に参加する教授会員の選任については、その選出母体である当該教室の判断と無関係に変更できないにも拘らず、精神科教室の意思を無視して、右第一五回教授会で、精神科教室の教授会員を稲田助手から井川教授に変更する旨の提案を行い、それも、同会議において承認された。

(13) こうして新たに選任された井川助教授ら三名の新任教官らは、同年二月二〇日医大に着任したが、その当初は、原告を含む従前から精神科教室にいた教官との間で、とくに対立するということも見うけられなかつたものの、右原告ら旧教室員が新任教官に対し、それまでの精神科教室の運営方法を踏襲することを求め、また旧教室員と新任数官との間では精神病治療に対する考え方につき相違があるにも拘らず、旧教室員らの社会的環境等に重点を置く医療観を新任教官らに強要したため、両者の間で次第に対立関係が深まり、更に、精神科教室の指導者的立場になる者として着任した井川助教授の指示や命令に対して、原告ら旧教室員は従うことなく、却つて、新任教官らの診療行為等を妨害するという行為をなした。殊に、同月二四日、井川助教授が朝の看護婦たちの申送りをみるため、付属病院第五病棟(精神科病棟)二階に赴いたところ、たまたま同病棟の入口から出てきた原告と出合つたが原告は、井川助教授をにらみすえながら、「何しにきたんや、何の資格でここにきたんや、医局員でないのに何で病棟にくる」などの暴言をはき、約二〇分位その入室を妨害した(同病棟に入ろうとした同助教授と原告が話しをしたことは当事者間に争いがない)。

二  本件処分の正当性

(一)  医師法一六条の二に基づく臨床研修制度の趣旨、目的は前叙のとおりであるところ、免許取得後の医師が同法一六条の二の一項所定の病院において臨床研修を行なう関係は、研修医の、教育研究施設の一環である同条項所定の病院の利用(国公立大学附属病院ないし国公立病院の場合は、公法上の営造物の利用)関係と解すべきである。しかして、同法一六条の二の一項は、研修期間のほかには、研修の許否、研修中の服務関係等について定めるところがないけれども、研修医受入れ大学ないし病院設置者は、右臨床研修の目的を達成するために必要な諸事項については、法令等に格別の規定がない場合でも、学則その他内規等によりこれを規定し、実施することができる自律的、包括的な権能を有するものというべく、従つて研修の許否、研修中の服務関係等に関する諸事項にして医師法に規定のないものは、すべて右各大学ないし病院設置者の学則その他内規等の定めるところに委ねる趣旨であると解すべきである。ところで、本件についてこれをみるに、前掲乙第一号証の医大臨床研修規程(昭和四六年四月一三日制定)五条一項、二項によると「臨床研修は、附属病院長が統括する。臨床研修は、診療科(中央臨床検査部、附属がんセンターを含む。以下同じ。)部長及び臨床研修指導医の指導のもとに行なう。」とあり、また同規定七条一項によると、「学長は、臨床研修医が医師免許の取消し又は医業の停止の処分を受けたとき、その他臨床研修を継続させることが適当でないと認められたときは、前条の許可を取り消すものとする。」と規定されているところ、研修医が、診療に関する知識、技能の向上と医療における人間関係について理解を深めるべしとする前叙研修目的に違背し、ないしはこれより逸脱する所為に出て、診療科部長及び臨床研修指導医の指導に従わず、附属病院長の行なう研修統括を乱し、当該附属病院において研修させることを不適当とするような場合は、右にいう「臨床研修を継続させることが適当でないとき」に該るものとして、研修の許可を取消すことができるものと解するのが相当である。しかして、右研修の許可の取消は、前叙のとおり医師法一六条の二及び医大臨床研修規程に基づくものであり、研修医の当該附属病院に対する利用の許否に関するものとして、行政処分性を有するものというべきであるけれども、もとより右研修の許可の取消は、右内規の定める範囲内において学長の裁量に委ねられているものと解すべきである。

(二)  そこで、被告のなした本件研修許可の取消処分の適否について検討するに、前記認定の事実によると、原告が単独ないしは精神科教室員らと共に、昭和五二年八月九日開催の第一回代表者会議において稲次助手の前叙発言等に対し、暴力をもつて対抗し、それがきつかけとなつて同会議を混乱させたこと、同月一六日第一外科医局及び第一内科医局、同月一八日第一内科外来診察室及び第一外科医局、同月二〇日橿原市立中央公民館において、第一内科、第一外科及び中央臨床検査部の同月一五日付の前示声明等に関し、右第一外科医局員らに対し、その考え方を批難し、是正を求めるため、それぞれ前叙のような威力を用いて相手方の意思を制圧し、その各業務を妨害したこと、昭和五三年一月一〇日開催の第八回教授会において、梅垣学長事務取扱の議事進行に対する対抗手段として投票用紙を取り上げ破り捨てる等したこと、同月九日開催の昭和五四年第一回予算委員会において、精神科病棟の改築のための予算措置がとられないことを抗議すべく同会を混乱させ流会させたこと、同年一〇月三日原告が助手として採用されなかつたことにつき、梅垣学長事務取扱に意見を求めるに際し、同人の乗車を妨害する等したこと、更に昭和五四年二月二四日意見の対立する井川助教授に対し暴言をはき、その入室を妨害したこと、その他被告が許可取消の事由として主張する諸事実が認められるところ、原告が以上のような諸行為に出るに至つた前叙認定の経緯に照らし合わせると、それ等の行為は、原告が医大、殊に精神科病棟の改革についての熱意から自己の抱く理想像の実現のために、自己の主張と相容れない者に対し、自己の主張貫徹の目的をもつて、やむなくなされた一連の行為であるとともに、他方それ等対立者の言動に誘発された側面のあることも窺われる。しかし、医大運営の在り方如何等の問題は、医大関係者間に種々の意見が存するのは当然であり、それらは医大において実施されている制度と手続の中で論議を尽して平和的に決められるべき事柄であり、意見対立者の行動や対応に不満があるからといつて暴力或いは威力をもつて自己の主張を相手に強いる方法で決定されるべきものでないことはいうまでもない。従つて、原告の前叙各行為は、前叙認定の動機、目的、各所為の際の状況、経緯等を考慮に入れても、臨床研修医としてとるべき態度としては妥当性を欠くものといわざるを得ず、原告の前示諸行為は、前叙臨床研修規程七条にいう、臨床研修を継続させることが適当でない場合に当るものというべく、被告が原告に対する研修許可の取消処分(本件処分)をしたことは、全く事実上の根拠に基づかないとか、或いは社会観念上著しく妥当を欠き、許可取消権者に任かされた裁量の範囲を超えるものとはとうてい認められないというべきである。

また、他に本件処分を違法とするに足る事情も認め難い。

第三結語

以上の次第であるから、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 諸富吉嗣 山田賢 中村哲)

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